これで3対8だよ!
私はバギオの汚い空き地でフィリピン人の少年レイモンくん(9歳)とフリースロー対決をしていました。
バイクのホイールを加工して作ったようなリングに空気が入っていないブヨブヨのバレーボールを投げて、先に10ポイント取ったほうがコーラを奢ってもらえるというゲームをしています。
今日もサボっちゃった
語学学校には授業料を払っているので、一応の後ろめたさを感じています。
そんな迷いのある手つきではシュートが入るわけもありません。
しかし私は学校の授業よりも、偶然出会ったレイモンと遊ぶことのほうに価値を感じていました。
アマンダ先生との会話
事前に申し込んでいた期間も残すところあと2週間といったところ。
ここ数日の間私は学校を休みがちでしたが、放課後に『お楽しみ会』的なイベントが学校の建物の地下にある大ホールで行われるとのことで朝から顔を出しました。
久しぶりに来たわね
授業はトレイシーのところに行ってくれる?
あなたがシンちゃんね?
あー…(書類ペラペラ)
シンね!
休みすぎて私のこと覚えていらっしゃらない!?
臨時の先生がいるからね
多分トレイシーだと思うわ
トレイシーの熱い授業を終えたあとのこと。
アマンダ先生が話があるそうなのでちょっといいですか?
分からなければ僕が通訳しますので
私はイロジロに呼ばれて学長室のような部屋に行きました。
ここ最近の私の欠席についての話であることは想像がつきます。
そこには教師陣のボス的存在であるティーチャー・アマンダが座っていました。
生徒が原因だとしても、こちらも1時間無駄に給料を払えないのは分かるでしょ?
学校だってビジネスなんだから
シンみたいに来たり来なかったりする生徒を誰も担当したくなくなるわけよ
1時間休みになっちゃうからね
エブリンとリリーがあなたの担当から外れたのはそういうことよ
今日知らないオカマの先生がいらっしゃったのはそういうことでしたか
説明しましょうか?
1ヶ月前にあなたが現れた時、何も聞き取れてなかったね
でも今はどう?
たった1ヶ月で私と会話ができてるじゃない
成果が出てるってことは、授業には意味があるってことなのよ
もう少しで終わりなんだから、できるだけ頑張って授業に出てくれないかな?
自分の英語のためであり、先生たちを助けるためでもあるのよ
反省します…
アマンダの言う通り、自分の英語力が上がっていることには日々気づかされていました。
関西弁の人と数回話すとちょっとイントネーションがうつっていたりするのと似ている感覚があります。
語学学習の初期段階では人は皆スポンジ。
「26歳になった私の吸収力などもはや濡れタオルだ」とまったく期待をしていませんでしたが、学校に行ったら行ったぶんだけ成長があったのです。
私の個人授業の担当をしていたエヴリンやリリーは教師として間違いなく優秀だったと思います。
生徒の怠惰のせいで給料を取り損ねていたなんて私は知らなかったので、申し訳ない気持ちになりました。
女性の先生が「ハロー!会いたかったー!」って言ってハグしてきたりするじゃないですか?
あれで好かれてると勘違いする人がたまにいるんですけどそれは全然違ってて、金のためになるべく授業に出てほしいから生徒と距離を縮めてるだけなんですよ
まあ半分色仕掛けですね
とのことです
さっちゃんの部屋
セックスをしたあと私はさっちゃんの部屋でサンミゲルというフィリピンのビールを飲んでいました。
ひひひ
最近のシンくん全然学校こないしなんかあった?
確かにそうかも
FuckとかShitとかそういうのは授業で習わないもんね
でもほんとは授業がめんどいだけでしょ?
わたし知ってるよぉ〜
ひひひ
ルームメイトの韓国人キノコとは数日前の一悶着により気まずくなってしまいました。
そのため私はひとり部屋に暮らしているさっちゃんの部屋に入り浸っていたのです。
わたしは12月までで、相部屋だとルームメイトがしょっちゅう入れ替わって寂しいでしょ?
だからわたしは最初からひとり部屋なんだ
さっちゃんでも寂しいとか思うんですねぇ
シンくんがもうすぐいなくなるのがいちばん寂しい
ひひひ
学校の自習室で個々に与えられている席があります。
学校初日から私の隣の席にさっちゃんが座っていました。
同期のドンキくんやいつも一緒にいるメガネくんよりも先に、私は彼女と仲良くなっていました。
私は自分がさっちゃんみたいな人が好きなのは分かっています。
情熱的にガンガン迫ってくるアンのような女の子よりも
バインバインのエヴリンよりも
いつも落ち着いていてなにかと余裕のあるさっちゃんが私は好きなのです。
ゴキブリの唐揚げを美味しそうに食べてみたり、どれだけお酒を飲んでも冷静さを保っていたり、死を覚悟するほど恐ろしいフィリピン人の運転を楽しんでみせたりと、たまにみせるミステリアスで豪快な面にも惹かれます。
いつも楽しそうに話を聞いてくれるさっちゃんに私は夢中になってしまい、危うく口を滑らせてしまいそうになっていました。
しかし「バギオを出て一緒に旅しよう」などとは口が裂けても言えないのです。
もしこれから行動をともにしてどこかのタイミングで急に別れた場合、彼女の予定を狂わせてしまったことへの罪悪感から私の精神は崩壊することでしょう。
私のような男として無価値の人間には、ひとりの女性の人生を動かす権利は無いのです。
また逆に、バギオに残るという選択肢もあり得ません。
さっちゃんは12月まであと4ヶ月バギオに残り英語を学ぶ予定です。
たったの3週間で学校に行けなくなってしまったような者が、恋をしてしまったがために盲目的にプラスで4ヶ月も延長するなど考えられないことなのです。
シンくんなんか考えてるね
わたし分かるんだ
ひひひ
服を着ながらジロジロと私を観察しているさっちゃん。
サンミゲルを何本か飲み干し、酔った私はその勢いで決断しました。
マレーシア?
バンコクからマレーシアを通ってシンガポールまで列車とバスで移動するんだ
それをやりたい
ひひひ
いま決めた
私はその場でマニラ発シンガポール行の航空券を買いました。
旅程を明確にすることによって無理やりバギオから、フィリピンから、さっちゃんから離れることにしたのです。
もうちょっと先の出発にするね!
その間ここにいさせてください!
好きにしてね
知らない自分
レイモンとコーラを飲みながら話しています。
はははは!
そのボールに空気が入ってたらドリブルで勝ってたね!
ある日私は学校をサボってバギオの住宅街をフラフラと歩いていました。
陳腐な作りの資材置き場のような場所。
有刺鉄線が破られている落書きとゴミだらけの小さな空き地で、汚い格好をしたレイモンがひとりでシュートの練習をしているのをしばらく見ていました。
すると日本人丸出しの顔面をしている私に気づいたレイモンは笑顔でゆっくり近寄って来たのです。
この不気味な空間では子供といえど恐ろしいものを一瞬感じました。
しかし彼の表情には、ポケットに手を突っ込んで強引に物を盗ろうとする過激なストリートチルドレンとは違う雰囲気があったのです。
本来であればビビリの私はすぐに逃げ出すはずなのですが、気づいた時には「フリースローで私に勝ったら何か買ってあげるよ」と発言していました。
それ以来たまにこの空き地に来てレイモンとバスケをしたり、ふたりで散歩をしながら話したりしていたのです。
そんなバスケットボールプレイヤーは知らないけどさ、1 on 1でもぼくが勝つんだ!
英語下手くそなのにもう学校卒業かい⁉︎
イヤだよ!シン!
シンはまだまだ英語が下手だからぼくが英語を教えてあげるよ!
だからまた会えるよね?
シン!
またここでね!
地元を離れる時や、仕事を辞める時、親と決別する時でさえ寂しいという感情にならなかった私は、知らない自分を見て驚いていました。
知り合って数週間のさっちゃんやそこらへんにいたフィリピンの子供ともう会えないことを想像しただけで、目視できるほどにくっきりとした寂しさを感じていたのです。
後日私はバギオの繁華街へ行き、おもちゃのような安いバスケットボールを買いました。
その足でレイモンと会った空き地へ行きましたが、結局彼と会うことはできませんでした。
弱めに言ってるのかな?
レイモンドゥッ
ンドゥッ!ドゥッ!
せめてそれくらい聞いておけばよかったな
周辺に散らばっているゴミとともに、毎回フリースローの勝敗を書いていた段ボールと油性ペンが残っています。
買ったバスケットボールに『RAYMOND』と大きく書いて、瓦礫の山の裏に隠して私はその場を去りました。