Philippines

第10話 さっちゃんとレイモン

レイモン
レイモン
Hey! Shin!
これで3対8だよ!
シン
シン
まだ分からんさ

私はバギオの汚い空き地でフィリピン人の少年レイモンくん(9歳)とフリースロー対決をしていました。

[レイモン]

バイクのホイールを加工して作ったようなリングに空気が入っていないブヨブヨのバレーボールを投げて、先に10ポイント取ったほうがコーラを奢ってもらえるというゲームをしています。

シン
シン
今ごろグループクラスをやっている時間かな…
今日もサボっちゃった

語学学校には授業料を払っているので、一応の後ろめたさを感じています。

そんな迷いのある手つきではシュートが入るわけもありません。

しかし私は学校の授業よりも、偶然出会ったレイモンと遊ぶことのほうに価値を感じていました。

アマンダ先生との会話

事前に申し込んでいた期間も残すところあと2週間といったところ。

ここ数日の間私は学校を休みがちでしたが、放課後に『お楽しみ会』的なイベントが学校の建物の地下にある大ホールで行われるとのことで朝から顔を出しました。

エヴリン
エヴリン
Good morning Shin!
久しぶりに来たわね
授業はトレイシーのところに行ってくれる?
シン
シン
トレイシー?
トレイシー
トレイシー
ア・タ・シ〜♡
あなたがシンちゃんね?
シン
シン
だ…誰!?

[トレイシー先生]

シン
シン
あっリリーおはよう
リリー
リリー
えっと…キミは名前なんだっけ?
あー…(書類ペラペラ)
シンね!
シン
シン
ショック!!
休みすぎて私のこと覚えていらっしゃらない!?
リリー
リリー
わたし3限目は違う生徒の担当になったから、シンは日本人マネージャーに聞いてくれる?
臨時の先生がいるからね
多分トレイシーだと思うわ
シン
シン
トレイシー!?

トレイシーの熱い授業を終えたあとのこと。

イロジロ
イロジロ
シンさん
アマンダ先生が話があるそうなのでちょっといいですか?
分からなければ僕が通訳しますので

私はイロジロに呼ばれて学長室のような部屋に行きました。

ここ最近の私の欠席についての話であることは想像がつきます。

そこには教師陣のボス的存在であるティーチャー・アマンダが座っていました。

アマンダ
アマンダ
あなたが休むと担当の先生の1コマ分のお給料がなくなるの
生徒が原因だとしても、こちらも1時間無駄に給料を払えないのは分かるでしょ?
学校だってビジネスなんだから
シン
シン
はいすみません
アマンダ
アマンダ
つまりこういうこと
シンみたいに来たり来なかったりする生徒を誰も担当したくなくなるわけよ
1時間休みになっちゃうからね
エブリンとリリーがあなたの担当から外れたのはそういうことよ
シン
シン
なるほど
今日知らないオカマの先生がいらっしゃったのはそういうことでしたか
イロジロ
イロジロ
ここまでわかりました?
説明しましょうか?
シン
シン
いえ、ゆっくり話してくれたのでだいたい分かりました
アマンダ
アマンダ
Good
1ヶ月前にあなたが現れた時、何も聞き取れてなかったね
でも今はどう?
たった1ヶ月で私と会話ができてるじゃない
成果が出てるってことは、授業には意味があるってことなのよ
シン
シン
おっしゃるとおりです
アマンダ
アマンダ
シンはあと2週間ね
もう少しで終わりなんだから、できるだけ頑張って授業に出てくれないかな?
自分の英語のためであり、先生たちを助けるためでもあるのよ
シン
シン
はい
反省します…

アマンダの言う通り、自分の英語力が上がっていることには日々気づかされていました。

関西弁の人と数回話すとちょっとイントネーションがうつっていたりするのと似ている感覚があります。

語学学習の初期段階では人は皆スポンジ。

「26歳になった私の吸収力などもはや濡れタオルだ」とまったく期待をしていませんでしたが、学校に行ったら行ったぶんだけ成長があったのです。

私の個人授業の担当をしていたエヴリンやリリーは教師として間違いなく優秀だったと思います。

生徒の怠惰のせいで給料を取り損ねていたなんて私は知らなかったので、申し訳ない気持ちになりました。

イロジロ
イロジロ
大事なことですから一応日本語でも説明しておきますね
女性の先生が「ハロー!会いたかったー!」って言ってハグしてきたりするじゃないですか?
あれで好かれてると勘違いする人がたまにいるんですけどそれは全然違ってて、金のためになるべく授業に出てほしいから生徒と距離を縮めてるだけなんですよ
まあ半分色仕掛けですね
とのことです
シン
シン
それはアマンダ言ってないでしょ?

さっちゃんの部屋

セックスをしたあと私はさっちゃんの部屋でサンミゲルというフィリピンのビールを飲んでいました。

さっちゃん
さっちゃん
アンちゃんがシンはどこー?って探してたよ
ひひひ
最近のシンくん全然学校こないしなんかあった?
シン
シン
うーん路上で暮らしてるレイモンからのほうが生きた英語を学べる気がするんだよね
さっちゃん
さっちゃん
生きた英語か
確かにそうかも
FuckとかShitとかそういうのは授業で習わないもんね
シン
シン
私がそういったワードを「これぞ生きた英語ですよ!」と言わんばかりに放っていたのであれば、それは恥ずべきことですな
さっちゃん
さっちゃん
ひひひ
でもほんとは授業がめんどいだけでしょ?
わたし知ってるよぉ〜
ひひひ
シン
シン
ギクッ‼︎

ルームメイトの韓国人キノコとは数日前の一悶着により気まずくなってしまいました。

そのため私はひとり部屋に暮らしているさっちゃんの部屋に入り浸っていたのです。

さっちゃん
さっちゃん
シンくんはあと2週間、8月末までじゃん
わたしは12月までで、相部屋だとルームメイトがしょっちゅう入れ替わって寂しいでしょ?
だからわたしは最初からひとり部屋なんだ
シン
シン
そうなんだ意外だね
さっちゃんでも寂しいとか思うんですねぇ
さっちゃん
さっちゃん
思うよ
シンくんがもうすぐいなくなるのがいちばん寂しい
ひひひ
シン
シン
ドキーッ‼︎
さっちゃん
さっちゃん
ひひひ


学校の自習室で個々に与えられている席があります。

学校初日から私の隣の席にさっちゃんが座っていました。

同期のドンキくんやいつも一緒にいるメガネくんよりも先に、私は彼女と仲良くなっていました。

私は自分がさっちゃんみたいな人が好きなのは分かっています。

情熱的にガンガン迫ってくるアンのような女の子よりも

[アン]

バインバインのエヴリンよりも

[エヴリン]

いつも落ち着いていてなにかと余裕のあるさっちゃんが私は好きなのです。

ゴキブリの唐揚げを美味しそうに食べてみたり、どれだけお酒を飲んでも冷静さを保っていたり、死を覚悟するほど恐ろしいフィリピン人の運転を楽しんでみせたりと、たまにみせるミステリアスで豪快な面にも惹かれます。

いつも楽しそうに話を聞いてくれるさっちゃんに私は夢中になってしまい、危うく口を滑らせてしまいそうになっていました。

しかし「バギオを出て一緒に旅しよう」などとは口が裂けても言えないのです。

もしこれから行動をともにしてどこかのタイミングで急に別れた場合、彼女の予定を狂わせてしまったことへの罪悪感から私の精神は崩壊することでしょう。

私のような男として無価値の人間には、ひとりの女性の人生を動かす権利は無いのです。

また逆に、バギオに残るという選択肢もあり得ません。

さっちゃんは12月まであと4ヶ月バギオに残り英語を学ぶ予定です。

たったの3週間で学校に行けなくなってしまったような者が、恋をしてしまったがために盲目的にプラスで4ヶ月も延長するなど考えられないことなのです。

さっちゃん
さっちゃん
ふむふむ
シンくんなんか考えてるね
わたし分かるんだ
ひひひ

服を着ながらジロジロと私を観察しているさっちゃん。

サンミゲルを何本か飲み干し、酔った私はその勢いで決断しました。

シン
シン
沢木耕太郎がさ、マレー半島を南下するんだよ
さっちゃん
さっちゃん
マレー半島って?
マレーシア?
シン
シン
そうそう
バンコクからマレーシアを通ってシンガポールまで列車とバスで移動するんだ
それをやりたい
さっちゃん
さっちゃん
いいじゃん
ひひひ
シン
シン
「深夜特急読んでるやん」って言われるとなんか恥ずかしいからさ、逆に北上することにした
いま決めた

私はその場でマニラ発シンガポール行の航空券を買いました。

旅程を明確にすることによって無理やりバギオから、フィリピンから、さっちゃんから離れることにしたのです。

シン
シン
でもなんか寂しいからさ!
もうちょっと先の出発にするね!
その間ここにいさせてください!
さっちゃん
さっちゃん
ひひひ
好きにしてね

知らない自分

レイモン
レイモン
Let’s get a coke Shin!

レイモンとコーラを飲みながら話しています。

シン
シン
私が勝っててもどうせコーラは私が買うんでしょう?
レイモン
レイモン
当たり前だろ!シン!
はははは!
シン
シン
私は宮城リョータタイプだ!
そのボールに空気が入ってたらドリブルで勝ってたね!


ある日私は学校をサボってバギオの住宅街をフラフラと歩いていました。

陳腐な作りの資材置き場のような場所。

有刺鉄線が破られている落書きとゴミだらけの小さな空き地で、汚い格好をしたレイモンがひとりでシュートの練習をしているのをしばらく見ていました。

すると日本人丸出しの顔面をしている私に気づいたレイモンは笑顔でゆっくり近寄って来たのです。

レイモン
レイモン
日本人?なんかちょうだい!

この不気味な空間では子供といえど恐ろしいものを一瞬感じました。

しかし彼の表情には、ポケットに手を突っ込んで強引に物を盗ろうとする過激なストリートチルドレンとは違う雰囲気があったのです。

本来であればビビリの私はすぐに逃げ出すはずなのですが、気づいた時には「フリースローで私に勝ったら何か買ってあげるよ」と発言していました。

それ以来たまにこの空き地に来てレイモンとバスケをしたり、ふたりで散歩をしながら話したりしていたのです。


レイモン
レイモン
Miyagi?
そんなバスケットボールプレイヤーは知らないけどさ、1 on 1でもぼくが勝つんだ!
シン
シン
じゃあ次で決着をつけよう!次に会うのが最後だからね
レイモン
レイモン
なんでなんで⁉︎
英語下手くそなのにもう学校卒業かい⁉︎
イヤだよ!シン!
シン
シン
シンガポールに行くんだよ
レイモン
レイモン
Shin…シンは『Shin』だけどシンガポールは『Sin』て言うんだよ
シン
シン
スィンガポー
レイモン
レイモン
そうそう!
シンはまだまだ英語が下手だからぼくが英語を教えてあげるよ!
だからまた会えるよね?
シン!
シン
シン
ありがとうレイモン
またここでね!


地元を離れる時や、仕事を辞める時、親と決別する時でさえ寂しいという感情にならなかった私は、知らない自分を見て驚いていました。

知り合って数週間のさっちゃんやそこらへんにいたフィリピンの子供ともう会えないことを想像しただけで、目視できるほどにくっきりとした寂しさを感じていたのです。

後日私はバギオの繁華街へ行き、おもちゃのような安いバスケットボールを買いました。

その足でレイモンと会った空き地へ行きましたが、結局彼と会うことはできませんでした。

シン
シン
dは発音しないのかな?
弱めに言ってるのかな?
レイモンドゥッ
ンドゥッ!ドゥッ!
せめてそれくらい聞いておけばよかったな

周辺に散らばっているゴミとともに、毎回フリースローの勝敗を書いていた段ボールと油性ペンが残っています。

買ったバスケットボールに『RAYMOND』と大きく書いて、瓦礫の山の裏に隠して私はその場を去りました。